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最高裁判所第三小法廷 昭和62年(あ)733号 決定

本籍

東京都港区六本木七丁目一八番

住居

川崎市宮前区犬蔵二丁目八番二一号

会社役員

樋口忠史

昭和一七年二月二三日生

本籍

東京都品川区上大崎一丁目四七六番地

住居

同世田谷区梅丘一丁目一六番四号

会社員

八木惇光

昭和一九年一二月一日生

右の者らに体する各所得税法違反被告事件について、昭和六二年五月二〇日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、各被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人樋口忠史の弁護人中野公夫、同藤本健子の上告趣意は、違憲(一四条)をいう点を含め、実質は量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

被告人八木惇光の弁護人中村悳、同天野武一、同石井春水、同深澤直之の上告趣意は、違憲(三七条)をいう点を含め、実質は単なる法令違反、量刑不当の主張であり、弁護人深澤直之の上告趣意は、違憲(三七条)をいうが、実質は単なる法令違反の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員に一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 坂上壽夫 裁判官 伊藤正己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 長島敦)

○上告趣意書

昭和六二年(あ)第七三三号

上告人 樋口忠史

右の者に対する所得税法違反事件につき、上告人は次の通り上告の趣意を述べるものである。

昭和六二年八月十一日

右弁護人

弁護士 中野公夫

同 藤本健子

最高裁判所 御中

原審の上告人樋口に対する懲役七月の実刑判決は上告人八木に対する宣告刑(懲役八月の実刑)、他の関係者が不起訴となっていることを勘案すると、量刑が著しく不当であり、憲法第一四条に定める法の下の平等に反するものと思料する。

その理由は左の通りである。

一、従前弁護人は、上告人樋口に対する量刑の事情として、左記のことを考慮すべきであると述べてきた。

(一) 本件は上告人八木が計画し、実行したことであり、上告人樋口は単に上告人八木に利用されたに過ぎない。上告人八木が上告人樋口を自分の事務所に出入りさせるようになったのは、上告人樋口をもっぱら利用することを考えてのことである。上告人樋口は上告人八木の利益追求の目的のために利用されたに過ぎないのである。

本件に於いては、上告人樋口は本件犯行の手段として利用した書類等の準備をした上告人八木の部下である中川、南薗両名と同行しており又東村山税務署に対する事前の同和団体を名乗る通知及び担当者への電話等はすべて上告人八木の手で行われているのである。こうした前後の状況及び上告人樋口自身は書類の作成に関与しておらず、それ故提出書類の内容についても確知していなかったこと等のことから判断すると、本件に於ける上告人樋口の役割は折衝というよりむしろ中川及び南薗が作成した書類の提出に立ち会うといった方が正確であり、実刑に付さなければならない程の相当性ある役割であったとはいい難いのである。

上告人樋口が金一五〇万円を受領したことについても、本橋との間で金一五〇万円を支払う旨の示談が成立し、この支払いをしているので上告人樋口には利得は残らないことになるのである。

又量刑の事情として上告人樋口が本件申告手続当時、道交法違反等による二年間の執行猶予中であったことと、本件が詐欺罪の判決言渡しの三日後であったことが指摘されているが、上告人樋口は昭和五九年一〇月以降は正業について責任ある仕事をしており、完全に過去を精算しているのであるから、このような同上告人に前科のことを理由に実刑を課することは酷にすぎると思料するのである。

上告人樋口は、本事件を機に上告人八木とも別れ、同和を騙る仕事からも足を洗い、現在は展示会の設営を業とする株式会社ザ・ワールドの代表者として正業に励んでいる。社員は四〇名~六〇名を擁しておりこれら社員の生活が上告人樋口にかかっているのである。上告人樋口が実刑を受けることは会社及びこれら社員にとっても回復し難い打撃を受けることとなる。

(二) 上告人樋口は、上告人八木から本件問題の取引内容について事前に説明を受けることなく、東村山税務署へ出向いて欲しい旨の指示に従って、既に作成されていた疎明資料を持参提出して申告手続きを行ったに過ぎず、その内容については全く関知していなかったのである。結局上告人樋口は前期の通り上告人八木の道具的役割を果たしたに過ぎないのであるが、この点につき、証拠により認められる事情は、以下の通りである。

イ、上告人樋口は、本件につき、上告人八木から昭和五七年二月二二日の当日まで事前に何ら説明らしいものは受けておらず、この当日も具体的なことは何ら説明は受けていない。勿論、上告人樋口は本橋とは面識もなく、同上告人から直接事情を聞くことも全く無かったのである。上告人樋口は右当日の午前中上告人八木の指示で中川、南薗と共に東村山税務署に赴いたのであるが、上告人樋口、中川、南薗三名が頼まれた用件は「上告人本橋が他人の借金の保証をして土地を売った件につき、控除が認められるか否か、またその手続にはどんな書類を提出したらよいか聞いて来る」ことであったのである。

上告人樋口と中川、南薗との間には依頼された用件の処理について立場上の差異はない。特に強調したいことは、この当時、上告人樋口は、本橋の実情については殆ど、説明を受けていなかったのであるから、東村山税務署に赴いて説明を受けるにしても、一般的なことに終止せざるを得なかったということである。

東村山税務署から上告人八木の事務所に戻ってからの状況は、むしろ上告人樋口と関係なしに事が運ばれているのである。

すなわち、東村山税務署に提出される本橋関係の書類の作成には上告人樋口は、全く関与していない。右提出書類の作成の関係では、上告人八木、南薗、島田電器工業株式会社代表取締役として中川博己三名が直接関与しているのである。

上告人樋口は、右書類作成の際は、一人昼食に出ていて、全くこれに関与していない。上告人樋口が昼食に出たのは極く自然の成り行きであって、関係者もこれを当然のこととしていたのである。

右提出書類作成のため、上告人樋口をその場に留めようとした気配は全くない。上告人樋口は当初から提出書類の作成には関係ないし、又関与することも無いとされていたのである。

上告人樋口が昼食から戻った時は、提出書類はすでに作成されていて、上告人樋口はこの書類を一見しただけで、再び中川、南薗らと東村山税務署に赴いたのである。

右赴くに際し上告人樋口自身は、上告人八木から、関係のもの(小切手、本橋の印等)も託されていない。

ロ、再び東村山税務署に赴いた時の状況についてであるが、上告人樋口は提出書類を係官に渡し、内容の確認、これに基づく申告書類の作成は係官に任しているのである。上告人樋口は内容的なことは殆ど発言していない。直接書類を作成していないため、書類についての具体的な説明ができる状態ではなかったのである。

勿論この際、上告人樋口は、具体的な言動で税務署の担当者に圧力をかけたこともしていない。

このことは書類提出の場所が税務署という公の官庁であることからも当然に推測できるのである。他にも職員のいるところで、担当者に圧力をかける等ということは不可能である。

この日上告人樋口は上告人八木から予め税務署に着いたら電話をする様に含められており、上告人八木が直接電話で話をするからということに指示されていたのである。事実、昭和五七年二月二二日の午後東村山税務署に着いて担当者と事務的なことについて打合せをする等の経過後、上告人八木が東村山税務署の担当者と電話で話し合い、結論を出したのである。

ハ、もっとも上告人樋口は、本橋と全く面識がなく、又上告人八木と本橋側との交渉の経過、金銭負担のこと、その他具体的打合わせの内容について、全く知らされていないのであるから、税務署に赴いても上告人樋口としては、具体的な内容の確定について折衝の余地も無かったと言えるのである。

このように見てくると上告人樋口の役割は中川、南薗らと共に東村山税務署に於いて上告人八木が、担当官と直接電話で話合いをするために橋渡しをしたに過ぎないと言えるのである。

ニ、むしろ本件を素直に見れば、上告人樋口より中川の果たした役割の方が大きいと言えるのである。

当初東村山税務署に赴いて簡単に事情を説明し、税務署の見解を聞くについては、上告人樋口、中川、南薗三名が共に赴き、共にこれにかかわっているのであるが、然しこのことは、大して重要なことではない。三人で一緒に東村山税務署に赴き、一旦、上告人八木の事務所に戻って後、税務署に提出する書類の作成に直接係り、且つ書類上の当事者となってことこそ重要である。書類上の当事者となると言うことは情を知って架空の書面を作成することと同義であり、当該行為の根幹となる一番核心的なことに関与することとなるからである。

中川は、右架空の契約書の当事者として署名することにより、本件の一翼を荷なうこととなったのである。自ら作成を指示し又は、自ら作成に関与したものと、全く関与しなかったものとの差異は量的なものというより質的なものと言うことができる。

中川の場合、右提出した書類がいかなる内容のもので、その実体がいかなるものかについては充分熟知しており、かかる書類を自ら持参し上告人樋口の手を介して東村山税務署員に提出したのである。

以上の状況から公平に判断すると本件肝心の昭和五七年二月二二日の上告人樋口の果たした役割は、当日中川の果たした役割以下のものであったと評価できるのである。

然も、上告人樋口は後にも先にも、この二月二二日以外、本件にはいかなる係りもしていない。

(三) 原判決は、上告人樋口が上告人八木と話し合って各役割を分担しながら税務問題に関与し、利得しようとした旨の判断をされたのであるが、この点についても、事実は全く異なっていると言うべきなのである。上告人樋口が、上告人八木に頼まれて扱った税務問題の件は二件だけであるが、いずれも上告人八木に頼まれて関与したに過ぎないものであって全て、上告人八木の主導の下に行われているのである。

特に重要と思われるのは金銭のことについて上告人樋口は全く関与していないし、上告人八木から全く相談も受けていないということである。

上告人樋口は本件の報酬としては、昭和五七年二月二五日の夕刻に上告人八木から金一〇〇万円を受け取っているに過ぎず、この額は中川、南薗らと同額である。然も、この金一〇〇万円は、上告人八木が立替えるのだと言われ、そのままその言を信じて受領しているのである。実際はこの時、上告人八木は、本橋から金七〇〇〇万円を受領し、上告人八木の採量で、これを適当に配分し、且つ、上告人八木は自己のため、その殆どを費消してしまっているのであるが、上告人樋口には、まだ報酬を受け取っていない旨虚偽の事実を告げ、上告人樋口を適当にあしらっているのである。昭和五六年一一月頃の小沢精肉店の時も同様である。上告人樋口は上告人八木の指示のままに動き、報酬として弍、参拾万円を受け取っているに過ぎない。

上告人樋口が右各報酬につき、上告人八木に特に文句を言い、又は積極的に上告人八木に抗議した気配は全くない。

仮に上告人樋口が上告人八木と役割を分担し、共同して税務関係の仕事をすることを事前に申し合わせていたとすれば、一番肝心な金銭の問題、報酬の問題について全て上告人八木が主導専断し、上告人樋口に全く相談をせず、報告すらもしないということは絶対にあり得ないのである。

二、本件への係わりは事実を正確に見る限り、上告人樋口は従の役割しかしていない。むしろ、中川以下と言えるのである。

中川が本件につき起訴猶予により、上告人樋口が起訴になったのは著しく不公平である。

特に本件上告人八木と上告人樋口の役割を勘案する時、金七〇〇〇万円の金員を手中にし、中心的役割を果たした上告人八木の実刑八月の刑に比し、上告人樋口の実刑七月は著しく重きに失するものと言うべきである。刑罰に於ける正義は量刑の公平をもって貫徹されるものと思料するのであるが、本件の場合上告人樋口に対する宣告刑は著しく不公平であり正義に反し、憲法の定める法の下の平等に反するものと思料するものである。

三、法的問題について

(一) 上告人樋口は起訴状に対する認否に於いて、公訴事実を認めておりそれ故、本件につき真正面からこの点を取り上げるのはいさぎよしとしないのであるが、然し本件の特色として以下の点は十分留意されるべきものと思料する。

本件税務署に提出された書面は、本橋が本件所得税の支払いをすることとなる不動産を処分した後の昭和五六年一〇月一九日付のものである。

ところで所得税の支払いが考慮されるのは、先に負担した保証債務の支払いをするためにその所有の不動産を処分し、然も、その処分して支払った保証人としての金銭の支出につき、債務者本人に求償しようとしても、債務者に資力が無いため求償が事実上不能である場合である。

本件で作成提出された書類は、日付から明らかな通り不動産の処分が先行しているのであるから、本件は元々税の免除の対象となる案件ではなかったのである。

(二) このような書面を税務署に提出した上告人らはいかにも無知であったと言うべきなのであるが、このことは反面いかに上告人らが杜撰であったかを示している。

上告人樋口が右書面につき不思議に思わなかったということは、元々本件の書面の作成には関与しておらず、又形式的に、この書面を確認したに過ぎないことと符合する。

然し、いずれにしても元々、免税の対象にならない書面を提出した行為は、法的に評価した場合免税を求める行為としては、全く意味のない行為であるから、このような行為がなされたことをもって犯行に着手したものと評価すること自体無理があると思料するのである。

(三) 次に本件は専門の税務署員が、少し注意すれば、申告の時点で受領を拒否できた案件である。元々不能な手段を用いたのが税務署員の不注意のために、これが受理されてしまったのである。

原判決は、この点につき上告人樋口らが強圧的に受理させたかの如く判断しているのであるが、然し、税務署の庁舎の中で、他に税務署員もいるところで、多少声を高くしたからと言って、そんなことで威圧され、自由な判断が不可能になるということは経験的に在り得ない。又本件はそのような状況下には無かったのである。担当の税務署員は、本件は当然に税の減免の場合に当たらないとして本件提出された書面の受理を拒否すべきであったのである。拒否すべきものを、そのまま看過し、不注意にも受理してしまったことの責任は、むしろ全面的に税務署側にあると言うべきではないかと思料するのである。

このように考えると本件については上告人らの刑事責任を問うこと自体できないのではないかと思料するのである。

少なくともこのような事案で上告人樋口を実刑に処するのは、相当とは思われない。

四、本件の量刑につき、上告人樋口が特に強調し上申した内容は、以上の通りであるが、その他、本件は、上告人樋口が上京して間もない時期の自己の拠って立つ基盤が出来ていない時の事件であること、その後、上告人樋口は本件の様な不毛な生き方と訣別し生産的な仕事に精出していること、本件は上告人樋口にとって過去のことであり、むしろ一時的なものであったと評価できること、上告人樋口は職業人として自立し、責任ある立場で業務に励んでおり、このような上告人樋口につき、いたずらに過去を強く責めるのは、教育的理念を含む刑の目的に悖ることであり、前向きではないこと、上告人樋口は先妻と離婚し、現在中村真理子と同棲しているが、本件のことが終わったら正式に結婚する心算であり、上告人樋口は同女の子供も引き取って面倒を見ており、又先妻との子供の養育費も毎月送っており、私生活の面に於いて、節度のある生活をしていること、何よりも上告人樋口は、本件につき深く反省しており、又上告人樋口の現在の生活態度、生活状況から判断して再犯の恐れも無いと断言できること等の全ての事情を勘案する時、上告人樋口を原判決通り実刑に処するのは相当ではあいと思料するのである。

五、尚、控訴審判決は、上告人八木に対する減刑の理由として、同上告人が本橋に対し、控訴審になってから五〇〇〇万円を返還した事実を挙げ、上告人八木が本橋から受領した金員は全額返還されたことを重視しているのである。しかしながら、受領した金員を全額返還した事は上告人樋口においても同様である。右上告人両名につき、本件事件の全般について各その役割を検討するならば、上告人樋口の懲役七月は上告人八木の懲役八月に比して著しく刑の均衡を失するものと言うべきである。

六、よって、本件の場合原判決を破棄し上告人樋口のため執行猶予の判決を賜るのが、法の下の平等に合致する所以であると思料し、本上告に及んだのである。

○上告趣意書

昭和六二年(あ)第七三三号

上告人 八木惇光

右被告人に対する所得税法違反被告事件につき、弁護人の上告趣意の要旨は左記のとおりである。

昭和六二年八月十三日

弁護士(主任) 中村悳

同 天野武一

同 石井春水

同 深沢直之

最高裁判所第三小法廷 御中

第一 原判決には憲法三七条二項及び三項の解釈に誤りがあり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから到底破棄を免れない(刑訴法四〇五条第一項第一号)。

一 原判決は憲法三七条二項について「憲法三七条二項は、裁判所が必要と認めて尋問を許した証人について規定したもので、被告人側から請求された証人はすべてこれを取調べなければならないという趣旨を定めたものではないから、原裁判所が、すでに取調べた証拠から十分に心証を形勢することができたと認められる以上、弁護人申請の証人の取調べをせずこれを却下しても刑訴法一条憲法三七条二項に違反するものではない」(原判決三枚目裏後二行目から四枚目表六行目まで)、と論じ、本件の場合、弁護人申請証人の「立証趣旨に照らし弁護人請求の証人の証人尋問をするまでもなく、すでに取調べた証拠によって被告人八木の刑事責任の存否及びその刑の量定に必要な諸般の情状について十分心証を形成することができたものと認められるから、原裁判所がこれを同一見解のもとに弁護人申請の右各証人の取調べの必要性はないものとして却下したのは、なんら証拠採否についての裁量の枠を逸脱したものではなく、審理不尽にもあたらない」と解釈している。しかしながら右見解は、憲法三七条二項所定の証人とは「裁判所が必要と認めて尋問を許した証人」であるとする点では正しいが、このような証人を裁判所が取捨選択するにつき被告人の(反対)尋問権を保障しようとする憲法三七条二項の究極の目的を全く没却してしまっている点において憲法の解釈を誤っている。憲法三七条二項は「自己に不利益な証人との対面を求め強制的手段により自己に有利な証人を求める」ことができるとする合衆国憲法六条に由来していて、憲法三七条二項前段に「すべての証人に対して審問をする機会を充分に与えられ」とある趣旨は、刑事被告人の人権を尊重して、すべての証人に対して反対尋問権が認められているということなのである。もっとも、最高裁判所は右の「すべての証人」を「裁判所が必要と認めて尋問を許した証人」の意味に解釈している(最大判昭二三、六、二三刑集二-七三四頁参照)が、少なくとも裁判所は右の必要性の判断の過程を通じて、被告人の反対尋問権を最大限に尊重しなければならないことは憲法三七条の法意(究極の目的)からして当然のことであって、いやしくも被告人の反対尋問権行使に必要な全ての証人の申請を一人残らず却下するというようなことはあってはならないことである。そうだとすると、憲法三七条二項後段の「公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」という規定に基き裁判所が証人の取捨選択を行う際にも、同条二項前段の反対尋問権の保障という観点を第一義としてこれを行わなければならないことは理の当然であるといわなければならない。

二 ところが原判決は、弁護人が第一回公判期日において、検察官請求の書証に対し、必要があるときには原供述者に対する反対尋問の機会を与えてもらいたい旨述べたうえ同意したとの主張を肯認しながら(原判決二枚目裏四行目から六行目)、右書証の立証趣旨と弁護人請求証人の立証趣旨がほぼ同一であることをほとんど唯一の理由として、「すでに取調べた証拠(書証)によって被告人八木の刑事責任の存否及びその刑の量定に必要な諸般の情状について十分心証を形成できたもの」と性急に断じ、「弁護人申請の各証人の取調べの必要性はないものとして却下」しても、前示のとおり「なんら証拠採否についての裁判所の裁量の枠を逸脱したものでもなく、審理不尽にも当らない」として省みないのである(原判決三枚目三行目から一〇行目参照)。右のような原判決の見解はあまりにも形式論理若しくは文言解釈にすぎるものであって、直観と独断を最も戒めるべき刑事裁判の実務にそぐわないものであり、書証の原供述者に対する被告人の反対尋問権を全面的に根こそぎ奪い去ることにならざるをえないであろう。もしも右の見解が第一審の刑事裁判実務に本件のように形式的かつ厳格に適用されるということになると、被告人、弁護人は反対尋問をしたいと思う参考人の調書(書証)はすべてこれを不同意にしなければならなくなり、換言するとすべて書証に不同意を表明しておかなければ、その原供述者に対し反対尋問権を行使できないということになる。この点につき、原判決は書証の立証趣旨と弁護人申請証人の立証趣旨が同一であるかどうかを証人の取捨選択(採否)の一つの基準として常識的な運用を行なえるという考えであるようにも受け取れるが(原判決三枚目終行から三枚目裏四行目まで参照)、そもそも一人の証人に対する主尋問と反対尋問ではその立証趣旨は抽象的には同一であって、主尋問はその立証趣旨を肯認させるためのものであり、反対尋問はその立証趣旨を弾劾するためであるの同様、ある書証について、その立証趣旨という場合と原供述者に対する反対尋問の立証趣旨という場合において、本来抽象的な文言としてはひとしく立証趣旨というけれども、通常は検察官提出の書証がその立証趣旨を肯認させようとするものであるのに対し、書証の原供述者に対する弁護人、被告人の反対尋問はその立証趣旨を弾劾するためのものなのである。したがって反対尋問権行使のための証人である場合には抽象的な立証趣旨が同一であるからといって反対尋問が必要でないなどということは決して言ってはならないのである。

ここで一つの大きな問題は、憲法三七条二項は裁判所で採用された証人に対する被告人の反対尋問権を保障するにとどまるのか、あるいはまた裁判所で反対尋問の留保付きで採用された原供述者に対する反対尋問権の保障まで含むのかということである。文言上、形式的にはたしかに前者のように読めるし、原判決が本件において憲法上保障された被告人の反対尋問権ということに特に言及していないのはこの趣旨であるのかも知れないけれども、しかし書証の部分同意ということが実務上許されているように、書証の原供述者に対する反対尋問権を留保した上での同意ということも決して禁ぜられているわけではない。我国における刑事裁判の運用の実情からすると検察官申請の書証に弁護人が同意し、同書証が取調べられることは検察官がその原供述者を証人として申請し、同証人が採用されて検察官が主尋問を行うのと同等の価値(効果)を有する。したがって反対尋問権を留保した上で弁護人が同意した検察官請求の書証を取調べておいて原供述者に対する弁護人からの反対尋問を一切許さないということは、証人尋問において一方の当事者からの主尋問だけを許容し、もう一方の当事者からの反対尋問は一切許容しないということと実質上同じことになる。そもそも、憲法三七条二項は書証等の伝聞排斥法則の根拠となる憲法上の規定であると位置付けられている。このことはとりもなおさず、書証のみの取調べから生ずる弊害を除去するという法意(目的)が当然右条項に含まれているとの解釈が成立することにほかならない。書証のみの取調べから生ずる弊害の主たるものはとりもなおさず、弁護人、被告人の反対尋問権が奪われ、真相が歪曲され、被告人の人権保障に重大な支障を来すということである。古来の諺の中にも「片言訟を断ずるなかれ」というものがあるが、書証のみを取調べておいて被告人、弁護人が当初から希望している書証の原供述者に対する反対尋問を一切許さなくてもよいということはまさしく、「片言によって訟を断ずる」に等しい。

三、憲法三七条二項は文言上、形式的には証人のみに関する規定であるような体裁を呈しているが、伝聞証拠排斥法則の根拠となっているという意味において、書証のみの取調べによって落入りやすい独断と偏見から裁判官を守るために、人類が長い歴史の中で樹立した金字塔であることを理解すべきである。書証の記載だけからすると極悪人のようにいわれている被告人でも実際に直接その弁明を聞き、その書証の原供述者を直接に証人として反対尋問させてみると、意外にも被告人がそれほどの悪人ではなかったということが判明することは、我々が実務上しばしば経験するところである。このような長年の経験と人類の英知が伝聞排斥法則を生み出し、憲法三七条二項の法意となって結実したものであって、原判決の右憲法三七条二項に関する解釈とその解釈に基づく証人採用についての判断は、明らかに右条項の根本的な法意(究極の目的)に背反するものである。

本件においては、各被告人間の共謀、犯行の既遂時期、税務署側の対応等について被告人側の刑事責任の存否、情状等について重要な争点が存在するが、なかんずく共謀に関しては被告人八木と本犯の本橋とは本件裁判で相被告人となるまで一面識もなかった間柄であり、その間に何人かの人物が介在して右両名の順次共謀の橋渡し的な役割を果たしているという、まことにきわどい事案なのであって、右の橋渡し的な役割を果たしている尾口八郎、下館勝治等(原判決三枚目七行目以下参照)に対する反対尋問が許されていたならば当然被告人の刑事責任や情状に決定的な影響を及ぼしたと考えられるのである。しかるに原判決は、憲法三七条二項の誤った解釈に基づいてこれら全ての証人の申請を却下し、さらに第一審におけると同様な誤った判断を支持したものであって、この点の憲法解釈の誤りが判決の結果に決定的な影響を及ぼしたことは疑いをいれない。

結局、本件では反対尋問を留保した上で同意された書証の原供述者に対する反対尋問が許されず、更に被告人の個別的情状に関するいわゆる情状証人二名(父親と妻)が取調べられたのみで、本事件に関する深刻かつ重要な争点に関する証人は弁護人の申請にもかかわらず、ただの一人も取調べを許可されなかったため、本事件についての全ての事実認定は反対尋問を経ていない検察側提出の書証のみでなされてしまい、一方の当事者の提出した証拠のみで裁判がなされたとの批難を免れないものである。しかも原判決は「弁護人請求の証人尋問をするまでもなく、すでに取調べた証拠によって被告人八木の刑事責任の存否及びその刑の量定に必要な諸般の情状について十分心証を形成することができたと認められるから・・・」(原判決三枚目裏三行目から七行目)というのである。しかしながら、反対尋問権の留保付きで取調べた書証の原供述者の反対尋問を許さなかったのみか、本件の刑事責任の存否及び刑の量定についての争点に関する弁護人側の提出証拠(証人申請)を全て却下し、一方の当事者である検察官提出の証拠のみで得られた裁判所の心証形成が、果たして公平な裁判所(憲法三七条一項)の十分な心証形成といえるであろうか。到底いえることではない。原判決は弁護人申請証人の立証趣旨を書証の立証趣旨とが同一であることを強調するけれども(原判決三枚目裏四行目から五行目)、これは先に述べたように弁護人は同一の立証事項につき、検察官の提出の書証の立証趣旨を弾劾しようとするものであり、このような過程を経ないで、一方的に検察官提出の証拠のみでその立証趣旨を肯認してしまうことは公平中立な裁判所の態度とは到底いえず、十分な心証形成とは程遠いものである。しかるに原判決はこのように偏向した証拠の採否についても「裁判所の裁量の枠を逸脱したものではなく審理不尽にもあたらない」(原判決三枚目裏九行目から一〇行目)、「弁護人申請の証人の取調べをせず、これを却下しても刑訴法一条、憲法三七条二項に違反するものではない」(原判決四枚目表四行目から六行目)と強弁する。ここまで来ると本件については弁護活動が許されなかったも同然であり憲法三七条三項の弁護人依頼権というものが何のために規定されているのかとの疑問に逢着せざるを得ない。弁護人依頼権が保障されている趣旨は元来、法律の素人と考えられている被疑者、被告人の人権を護り、防禦活動を十全ならしめるにほかならず、したがって被疑者、被告人は、公訴前、公訴後のいかなる段階においても弁護人による「十分な弁護」「実質的な弁護を請求し得る基本的な権利」を有する。

四 すでに述べたように、本件においては、被告人の刑事責任の存否やその刑の量定に必要な諸般の情状

(特に公訴事実に関するもの)につき重要かつ深刻な争点が存在したにもかかわらず、弁護人申請の証人が誰の一人も採用されず、したがって弁護人側の反証の機会が全く与えられずに第一審、第二審とも結審したものであり、この間、再三弁護人側から憲法違反を理由としての異議申立、控訴申立がなされたにもかかわらず、最終的に原判決の誤った憲法解釈に基づいて刑事裁判に必要不可欠な弁護人の弁護活動が封殺されてしまったものである。もとより事案によっては弁護人が全く反証活動を行わずに個別的な情状を立証するためにいわゆる情状証人しか申請しないこともあろうし、反証活動として申請した証人が争点と関係しないとか関連性のない場合もあろう。また反対尋問権を明白に放棄している証人である場合もあろう。このような場合に裁判所がその証人申請を時に必要性がないものとして却下することは理の当然である。しかし本件において弁護人が申請した証人は、反対尋問権を留保した書証の原供述者、書証も存在しない重要争点に関する全く新たな証人(西畑弘夫、永田むつ子、竹本進)等であって反証活動として極めて重要かつ不可欠なものである。原判決は、これらの証人の唯の一人も採用する必要がなく、憲法三七条にも違反しないというのである。このような考え方は司法的判断とは程遠いものであり当事者主義を基調とした現行憲法、現行刑事訴訟法を全く無視した常軌を逸した判断として排斥されなければならない。

よって、憲法三七条二項同三項についての原判決の解釈は誤ったものであり、その誤りが原判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、上告の上、最高裁判所の公正な判断を仰ぐ次第である。

第二 原判決の量刑は甚だしく不当であって原判決を破棄しなければ、著しく正義に反するものである(刑訴法四一一条一項二号)。

一 まず本件における各共犯者の刑事処分を一べつしただけでも被告人に対する原判決の量刑が甚だしく不当であることが明らかである。

本件では被告人として起訴されたものは被告人八木、相被告人樋口、同本橋のわずか三名であるが、この外にも次のような共犯者が存在する。

〈1〉 中川博巳

本件の首謀者で税請負人側の中心人物でかつ実行行為者の一人である。偶々本人が別罪で取調べ中に本件について供述したため、四年以上も以前の古い事件である本件が発覚するに到ったものであるが、本人は警察に情報提供した功績が認められたものか、本件において報酬約一〇〇万円を収受しながら全く起訴されず、何の処罰も受けず、別罪で処罰を受けたにとどまっている。

〈2〉 南園正道

相被告人樋口及び前示、中川等と共に脱税請負人側の中心人物でかつ実行行為者の一人でありながら、逮捕、勾留もされず、起訴されなかったため、本件につき何らの処罰も受けていない。初犯ではなく、本件に関し約五〇万円の報酬を収受している。

〈3〉 尾口八郎

本犯である相被告人本橋の側の人物で、本橋に対し直接本件脱税を教唆し実行させたものは同人と河上を措いて外にはないといえるほど本件において重要な地位を占めているものであるが逮捕も勾留もされず、起訴されなかったため、何等の処罰を受けていない。本件に関する報酬として約二五〇万円を収受している。

〈4〉 河上弘次

本犯である相被告人本橋の経営する貸ビルの店子であり、下館勝治と長年の知合いであったところから同人を尾口に紹介し、尾口と共に本件脱税を本橋に教唆し、実行させた人物で、本件に関する報酬として約二五〇万円を収受している。

逮捕勾留もされず、起訴されなかったことから何等の処罰も受けていない。

〈5〉 下館勝治

被告人八木の叔父八木保の知合いで、以前から知合いの河上弘次に本件脱税の話を持ち出し、その後河上や尾口と共に本橋のところに出入りし、本橋に本件脱税を教唆し、実行させたものである。本件に関し約二五〇万円の報酬を収受しているが、本件については逮捕も勾留もされず、起訴されなかったことから何等の処罰を受けていない。

〈6〉 上原良雄

本犯である相被告人本橋の税務関係を処理していた税理士見習で、本件が脱税になると知っていたと思われるのに、尾口や河上と一緒になって本橋に対し、本件は決して罪になるようなことはないといって本橋を安心させ、本橋をして本件脱税申告を尾口や河上に依頼しようと決意させたものであり、本件に関し約二〇〇万円の報酬を収受しているものである。本件について逮捕を勾留もされず、起訴されなかったことから、何等の処罰も受けていない。

これらの共犯者と被告人八木の刑責とを比較した場合、果たして一方が起訴はおろか何等の刑事処罰を受けず、他方は逮捕勾留されて起訴され一度ならず実刑判決の言い渡しを受けるといった刑事責任もしくは量刑の差が存在するのであろうか。被告人八木は本犯の本橋とは本件の刑事裁判で相被告人とされるまで全く一面識もない間柄であり、本犯の本橋に本件の脱税申告を決意させたものは被告人ではなく、他の共犯者なかんづく本橋と親しかった尾口、河上、下館であり、本橋が本件脱税申告を同人等に委ねることになった決定的な原因は、専門家である共犯者上原の助言である。このような意味合いから被告人八木は本件の一つの誘因を設定したにすぎない。ただ被告人八木が他の共犯者や本件関係者に対する報酬を請求し、受け取った窓口的役割を果たした点が他の共犯者と異なる点であるが、これとてもその後被告人八木が本件について深く反省し、自己の一存で配分したとみられる六〇〇〇万円を本橋に返還している点を考えると、被告人八木のみが最も重い実刑処罰を受けることは明らかに他の共犯者の刑事処分との均衡を失していると考えられる。

かように被告人八木と他の共犯者との間に一方が実刑、他方が起訴もされずに何等の処罰をも受けていないといった程の大きな刑事責任や量刑事情の差は存在しないものであって、原判決の量刑は甚だしく不当であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものである。

二 被告人の悔悟、反省と弁護について

被告人は第一審判決後、自宅を売り払って被告人が窓口となって受け取った違法行為の報酬五〇〇〇万円を本犯の本橋謙治に弁償した。被告人は第一審において一〇〇〇万円を右本橋に返還済みであるから、被告人八木が被告人本橋から受領した金は納税資金等を除き全額返還されたことになる。(原判決二二枚目裏一行目から六行目)

もともと右の六〇〇〇万円はその全てを被告人が個人として利得したものではない。被告人樋口の属している組織の組長に被告人樋口を通じてお世話になった謝礼として、又、納税申告のため税務署に言った中川、南園等に謝礼として渡したりしたことによって被告人が個人として利得した分は五〇〇万円にも満たないものである。

しかし被告人八木としては本件について心底から悔悟、反省した結果、自己が窓口となって受領し、各人に配分した報酬については個人的な利得ではなくても全て返還するべきであると考え、自己や家族が住んでいる自宅までも売り払ってその金員を弁償にあてたのである。

ここまで悔悟反省し、贖罪に努めた被告人を何故に執行猶予にして社会内で更正させてやれないのか疑問に思う。

第一審での弁償額は一〇〇〇万円で反省の態度が必ずしも明らかでないとして(第一審判決一三枚目裏五行目から九行目まで参照)実刑の言渡しを受けたが、第二審では更に悔悟反省を重ね、自己や家族の生活を犠牲にしてまで五〇〇〇万円の金を弁償し、納税資金分等を除き、本橋から受領した金員を全額返還したのである。ここまで悔悟反省し、弁償に努めた被告人を実刑に処するということは通常はあり得ないことであろうと思う。

これが実刑ということになると一度河を渡って対岸の悪の世界に走った被告人が反省悔悟して善の世界に戻るための橋いわゆる「引き返すための金の橋」(Eine Goldene Brcke Zum Rckzeuge)がどこにも架かっていないことになり、被告人を絶望の淵に追い遣ると共に累犯者の悪へきにとっぷり染まらせてしまうことになる。どんな悪人であっても善の道に引き返すための一条の光明だけは与えておかねばならず、本件被告人の個別的情状や共犯者の刑事処分ひいては本件事案の性質を考慮に入れるとなおさらのことである。

三 本件事案の性質と被告人の個別的情状

本件はその発生の経緯から考えて偶発的なものであり、被告人が他に正業を有していたという意味において営業的なものではなく、反復累行性のないものであり、再犯のおそれのないものである。

また本件は自然犯ではなく、いわゆる行政犯であって、いわば人為的な犯罪である。租税史の中にはいわゆる権力の座にあるものが、税金として集めた国の財源を浪費したり、私腹をこやしたりといったかんばしくない時代が続いたことから、その反省の意味からも近代の民主主義国家においては租税犯という人為的な行政犯に対しては不当に免れた税金を納入させることを主たる目的とし実刑を課したりということは出来るだけ謹んで行こうとする傾向が芽生え、これが継承された来たものであり、これは人類の大きな進歩といえるものである。

原判決はしきりと被告人八木の刑法犯、交通事犯の罰金前科等を問題にしているが(原判決一八枚目九行目以下)、その反面、この主の租税ほ脱犯については被告人八木は全くの初犯であり、しかもこの行政犯は既に四年以上を経過する古い事件であり、実際に処罰されてしかるべき実行正犯の中川、南園、順次共謀の中核となり多額の報酬を受け取っている尾口、河上、下館等が本件では逮捕勾留もされず起訴もされていないという不公平さにも触れていない。

被告人等の犯行は、報酬を得ることを目的として他人の税金につき、脱税を請け負ったものであり、社会的により強く非難されるべきである(原判決一七枚目裏四行目以下)という原判決の指摘はもっともであるが、他方脱税請負人であっても自ら反省悔悟して本犯の納税の申告に協力するため、自己の家屋まで売り払い他人の分まで含めて違法な報酬を全て本犯に返還弁償した場合の情状の評価に欠けたところがあるといわざるを得ない。

本犯の本橋氏及びその弁護人も「結局、私の妻弘子が八木さんに渡した七〇〇〇万円の中一〇〇〇万円は、私側の尾口、河上、上原等に対する報酬、納税費用等に使われておりますので、八木さんとして、自分が窓口となって配分した全ての金員を弁償されて、何の利得もなかったことになります。八木惇光さんが所得税法違反を犯した事実はそれで消えるわけではないでしょうが、八木さんだけが特に悪かったというわけではないと思われますので、このような良心的な贖罪の気持ちを裁判所において斟酌下さり、せめて八木さんが執行猶予の恩典に浴することができますよう、御恩情ある御判決を八木さんのために嘆願する次第です」(昭和六二年五月一九日付け弁護人提出の嘆願書参照)と述べているのである。

被告人八木はこれまで一度も服役の経験がないものであり、今回もし実刑が確定することになると財界や法曹界に親戚を持つ名門の家庭も破壊されることになり、会社の従業員の生活にも支障を来すことになる。

以上の事情を考慮すると原判決の懲役八月の実刑は甚だしく不当であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

最高裁の公正な判断を期待する次第である。

○上告趣意書(補)

昭和六二年(あ)第七三三号

所得税法違反 八木惇光

右被告人に対する所得税法違反事件についての弁護人の上告趣意の補足は左の通りである。

昭和六二年八月十三日

右弁護人 深沢直之

最高裁判所 御中

第一、第二審の判決について、憲法の解釈に誤がある。

一 第二審判決は、被告人八木に関する控訴趣意書第二点訴訟手続の法令違反の主張について、「すでに取調べた証拠によって被告人八木の刑事責任の存否及びその刑の量定に必要な諸般の情状について十分心証を形成することができたものと認められるから、原裁判所がこれと同一見解のもとに弁護人申請の右各証人の取調べの必要性はないものとして却下したのは、なんら証拠採否についての裁判所の裁量の枠を逸脱したものではなく、審理不尽にもあたらない。」

「原裁判所が、すでに取調べた証拠から十分に心証を形成することができたと認められる以上、弁護人申請の証人の取調べをせずこれを却下しても刑訴法一条・憲法三七条二項に違反するものではない。」とする。

二 しかしながら、右解釈は明らかに憲法三七条二項の解釈を誤ったものと言わなければならない。

確かに、右判決が言うように同項は「被告人側から請求された証人はすべてこれを取調べなければならないという趣旨を定めたものではない」ことは当然にて、弁護人は左様に主張するものではない。が、しかし、「裁判所がすでに取調べた証拠から十分に心証を形成することができたと認められる以上、弁護人申請の証人の取調べをせずこれを却下しても同項に違反しない」とするのでは、同項にいう「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」の解釈に極めて不充分である。

三 蓋し、第一、二審ともに「裁判所が十分心証を形成できたから証人の取調べは良いのだ」という様に解釈をなすに足るだけの信頼を国民から得られるに足る裁判所であれば、何ら問題はないのであるが、残念ながら現実は異なっているのであり、又、現実が異なるからこそ、右憲法三七条二項は、右の如く規定して被告人に十分な証人審問の機会を与えられることを保証しているのである。

にもかかわらず、一、二審ともに極言すれば「裁判所である自分がもう十分だと言っているのでから良いのだ」などと右条項を甚だ勝手に解釈するのは裁判所のおごり以外の何ものでもない。

故にこそ、弁護人が控訴理由第二点として「信頼に足る裁判所に非ず」と声を大にして叫んでいるのであり、この様な裁判では被告人を納得させることはできないのである。

四 少なくとも弁護人は、税務担当官の言動を非常に強く問題にし、犯罪の不成立を主張しており、同担当官の供述調書乃至は証人西畑弘夫の調べを強く要請してきている。

この様な場合、弁護人が申請した「証人南薗・矢田・尾口・下館は、検察官請求の取調べ済み供述調書の原供述者であること、弁護人請求の証人尋問の立証趣旨は、被告人八木の税務申告についての知識・経験・本件において果たした役割・相被告人本橋へ話を取り次いだ経緯・内容・税務署における申告時の状況、脱税報酬の分配等であることがそれぞれ認められる。

右によれば立証趣旨に照らし弁護人請求の証人尋問をするまでもなく、・・・」等として、証人西畑の必要性については一ぺんの断りすらもなさずにそのまま放置している。

否、一ぺんの断りすらも出来ない裁判所であるが故に記していないのである。

この様に弁護人が極めて重視し、その犯罪の成否にかかわる重要なものとして取調べを申請している証人については合理的な理由なくしは不採用に出来ないものであり、採用しない場合には、少なくともその合理的な理由を明示しなくてはならず、これなくしては憲法の右条項は何らの保証もなく空文と化するものにて、このことを同条項は最低限要請している。

五 憲法の同条項は、「裁判所がすでに取調べた証拠から十分に心証を形成することが出来たと認める」だけでは、「被告人にすべての証人に対して審問する機会を充分に与えた」とは言えないのである。

従って、判決は憲法の解釈を誤っている。

この様に合理的な理由もなく、又、明示もせずに、切り捨てごめん式の証人不採用を、「証拠採否については裁判所の裁量に属す」と宣言するだけの第二審裁判所にあっては、憲法三七条一項にも違反しているといわざるをえない。

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